僕と言ったら弱く、俺と言ったら強く。
 
人と話す時には、たいてい僕口調だ。俺口調で話す男性もいるが、とても真似できない。上から物を言っているようだし、何だか横柄な感じもする。話す本人の感覚の問題だ、話していて、何も感じなく自然体であれば、俺口調の男性を逆に羨ましいと思う。話下手ゆえに、どうしても相手がどのように感じるかを気を使ってしまう。
 
プロボクサーの道を歩いていたら、こういう性格は長所と同時に、致命傷にもなる。写真をやっているから、致命傷的性格は半減されるが、時には図々しくなければならないプロという道、競争社会という現実、悩みが完全に解決されることはない。
 
でも心の中では、俺口調で話すような、強い印象を持つ俺という信念も持っているつもりだ。誰にも女性的な部分もあるし、男性的な部分もある。東京での生活や、アジアでの旅を続け、写真という芸術(社会?)にいようとすると、俺という立場まで持ってこないと、自分が揺らいで消えてしまいそうな不安に陥ってしまう。
 
夜中にふと目覚めまた寝る段階も含め、眠る前の時間(眠ったら夢を見るだけで何も考えなくていい)が、魔の時間だ。自分を傷つけてしまいそうな危うささえある。いかに自分をコントロールするかだ。写真家は芸術家とは思わないけれど、その端くれとしての存在はあるという気もするし。今までに、潰れてしまった(自殺、他者を傷付ける、精神的肉体的に異常を来たす)作家は少なくない。芸術家と犯罪者は、紙一重なのである。いや、今のような世の中で暮らす誰もが加害者になり、被害者になりうるのである。自分という名前に誇りを持ち、親を尊敬すれば、道を大きくはずれることはない。
 
眠れないからと言って、薬には、決して手を伸ばさないことだ。インドの旅でも、薬が原因でだめになった人を何人も知っている。異国の地、特にインドの雰囲気は場所によって独特で、人には言えないような孤独を味わうことがある。そういう時は、薬に頼らず、孤独を噛み締めることだ。孤独は人に与えた試練、孤独を一つ一つ乗り越えれば、人は大きくなれる。逆に孤独を感じない人は、成長していないことになる。インドのサドゥー(修行者)でも、薬によって、悟りを開いたような錯覚をする者もいるが。薬によって悟りの境地に達しても、そんなの嘘だ。本物のサドゥーとは、しらふの状態で、肉体的精神的にも高める者のことだ。悟りという境地さえ、実に不可思議で、あいまいなものはない。定義はできるが、真の事実ではない。
 
どんな薬も、薬は信用できない。唯一認められるのは、正露丸ぐらいだ。日本で医者に処方されるわけの分からない薬も、栄養補給か分からないが多数ある流行のサプリメントも、疑ってかかる必要がある。栄養を補給したければ、その分、肉や野菜や果物を食べればいいじゃないか。インドなどを長期で旅をすると、どうしても、「死ぬかもしれない」と思うような病にかかる時がある。肝炎やコレラなどではなく、ただの風邪や腹下しなどであるが、旅の疲れ、環境の違い、神経的なもので、日本でない土地、周りは日本人がいないという状況から、日本の倍以上の症状を感じることがある。薬とは、異国の地で本当に弱った時の最後の手段なのである。煙草や酒だって、飲まないにこしたことはない。
 
ここ一週間はバイトに追われていた。今日は、ジムへ行く。自由に動くことで、流れ作業の仕事の垢(精神的肉体的にも)を取り除いた気がする。ボクシングをやって本当に助かっている。あまり無理をすると、体を壊すことも分かっている。ただ一通りの型を覚えたことで、プラスに働いていることだけは確かだ。夜、異国の地で不安に陥っても、宿の狭いスペースでシャドーボクシングをすれば、乗り越えられる。
 
旅や写真を続けていると、兄弟や友人(親は別だ)やいろんなものが遠のいていくような錯覚を持ってしまう。今の日本の風潮かもしれないし、被害妄想かもしれないし、事実かもしれないが、自分の道を信じれば、自分なりに努力をすれば、絶対にいろんなものは戻ってくる。時が経ち舞い戻り、また時が経ち離れていく、そんなものの繰り返しだ。
 
人は孤独であり、孤独との闘いである。
 
どれだけあきらめず、自分の生き様を、足跡を示すかだ。俺の道を行く。僕は俺のように強くなりたいのである。
 
 
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