単調な日々と、そこからの希望

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今日もジムへ行く。
ストレッチをして、縄跳びを2R飛んで、鏡の前でシャドー2R、リングに上がってシャドー2R、
サンドバック5R、パンチンググローブ2R、再びシャドー1R、縄跳び1R、筋トレ、
最後にストレッチをして練習を終える。
トレーナーがいて、声がかかれば、トレーナーのミットにパンチを打ちこむこともある。
 
1Rは3分間で、ジムにはそれを示す特殊な時計があり、
1Rの始まりと終わりをブザーで知らせる。
だいたい一回の練習時間は、1、5~2時間ぐらいか。
ほぼ毎週2,3日の日課になっている。
 
ジムへ行くのと行かないのでは大違いだ。ジムへ行く前は、本当に憂鬱になる。「何でこんなに蒸し暑いのに、汗をかかなければならないのか?」などなど。
ただ終えた後は気分もすっきりするし、体も少し軽くなる。慣れない頃は、筋肉痛にもなったし、ブランクが開き過ぎると、体は思うように動かなくて重い。
日課にしてしまうと、体が軽くなるように思えるから不思議だ。
自信や度胸も多少はつくし、何よりもあれだけ家でゴロゴロしていては何をやってもつまらなく思えるのに、
何かをやろうとする気持ちが出る。実際にブログを更新しようとする気持ちにもなる。
ブログさえも、長く続けようと思ったら、「自分の日記なんて誰も見ていないのではないか?」などなど重荷になる時もある。
 
結局は何でもそうだと思う。
ブログでも、ボクシングでも、写真でも、仕事でも、
生きるということは、単調な日々の繰り返しだ。
楽しみだけでない、悲しみや苦もある。
お金持ちではない、遊ぶ金もない、一般庶民なら、誰もがそう感じるはずだ。
でも、死んではいけない、少しでも長く生きなければならない。
 
単調な日々と、それらをふまえ、そこから少しでも希望を見出すのだ。
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何かをする為の時間

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今日もバイトをする。9時から始まって、17、18時には終わる。
内容は雑誌の仕分け。ひたすらの流れ作業。ずっと立ち仕事で足はしんどいし、
単純作業なので終了の頃には頭がボーとする。
それでももうだいぶ慣れてしまった。今度は慣れてくると、「こんなことをしてていいのかなあ?」と思えてくる。
 
割り切っているから、まだいい。バイトから解放されれば、自分の時間がある。これがフリーターではなく、正社員だったら、たぶんもっと追いつめられるだろう。
時間はお金では買えないし、何かを本格的にやろうと思ったら、多少の安定を削っても、自分にとっての時間が必要になる。
 
例えば、プロボクサーだ。本当に強い男を目指すなら、朝も昼も夜も練習しなければいけないだろう。正社員になってしまうと、仕事の終わった夜、休みの日しか体を鍛えることができない。試合の1ヶ月前になったら、全ての会社の仕事を辞めてしまっても、体や精神を調整する必要だってある。試合に勝つ為には、自分の生き様を見せる為には、安定した地位を捨てても、一つのことに賭ける覚悟がいる。この世には様々な会社があるわけだから、ひょっとしたら正社員でもそんな選手を後押ししてくれる会社が見つかるかもしれない。ただごく稀なケースだろう。会社は、個人の活動なんて知る必要もないし、会社の利益を上げることが優先される。会社の正社員とは、会社の為に尽くさなければいけないし、それ相応の責任を背負わなければならないのだろう。少なくとも今の時代のような不況では、会社の余裕はない。社員の課外活動を容認するほど社会は甘くはない。
 
例えば、小説家だ。長い文章を書くには、とてつもないエネルギーがいる。日常の生活に支障が出るほど物語の中に入りこみ、ストイックになる場合だってある。本格的に文章を書こうと思ったら、細かな人物設計や心理描写、ストーリー、それこそ膨大な考える時間が必要になってくる。とても残業続きの正社員では、時間がなさすぎる。時間の決められた公務員や、フリーターであれば、時間は作ることができる。
 
写真も結局は同じなのである。自分や時代を見つめて作品にするということは、時間が一番大切なのである。次に金銭の問題は避けて通れないが。
ボクサーの体を鍛えることでも、小説家の文章を鍛えることでも、写真家の写真を鍛えることでも、一緒なのである。
 
僕の被写体はアジアにあるし、このままずるずる行けば前回の旅と撮影からもう1年も経ってしまう。できれば今年中に旅と撮影に行けるように努力したい。

正社員かフリーターか

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本格的に写真をやろうと思ったら、会社の正社員にはなれない。
旅行会社に勤めていたことがあるから、多少のことは分かる。
例えば、週休二日で残業が続く。自分の撮りたいものが日本にあったとしても、
休みの日に写真を撮ろうとする気持ちは起こらないだろう。
来週の仕事の為に、休むのが普通だ。
散歩をしながら、何気なく写真を撮れば、撮ることはできる。
ただ本格的に撮ろうと思ったら、写真も仕事になる。
無駄に歩くこともあるし、五感特に視覚を働かせるし、
時に構図やシャッターチャンスやアングルや被写体との間合い、ポジだったら色や露出を考えたりする。
時代性やストーリーも考えたりする。
見られている人にも注意を払うし(今の世の中、特に東京では人の入るスナップは難しい)、いろいろと神経を使うのである。
 
正社員になれば、どれだけ今の現実の生活が助かることか。
結局は、ないものねだりなのである。正社員になれば現実の生活は助かるかもしれないが、リスクのある夢を追いかけることが難しくなる。
金銭をとるか、時間をとるかになる。
安定した地位をとり、毎年の給料を確保しても、それを使う(投資する、賭ける)時間がなくなってしまう。
双方が極端過ぎて、時間だけ有り余っていても、金銭がなければ何もすることができない。
お金と時間は、一生ついて回る上手いようにはできていない人間にとっての課題だ。
金銭と時間とのバランスが大切になってくる。
 
今の時代の雇用形態は、一つの会社の芯となる正社員以外は、ニートを除くフリーターも契約社員も一緒である。
仕事内容は、正社員、契約社員、フリーターも一緒の所まで来ているように思う。
会社の求める仕事量や速さ、ノルマ、的確さに追いつかなければ、会社によっては居場所がない。
時に体力を酷使し、時に自分の性格とは違っていても順応しなければしょうがないのである。
 
まだ30歳だし、金銭と時間とのバランスを考えれば、バイトを選択せざるをえない。
ただ自分探しのバイトではない。自分探しのバイトはだいぶ前の学生で終わっている。
 
気持ちは、写真家である。
 
写真を撮っていくことが、写真で表現していくことが、写真を残していくことが、自分探しなのである。

一瞬の夏

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15時頃、ジムへ行く。
それにしても暑い。行くまでに夏の暑さが脳天を直撃する。
直撃するような暑さはどちらかと言えば慣れているし、そんなに嫌いではない。
 
10数年前の高校球児だった頃の記憶が甦る。
名東高校という市立の学校で、地区予選の1回戦に勝てるかどうかの弱小チーム。
それでも最後の夏は、1回戦を3-1で勝利し、純粋に感動した。
2回戦は惜しくも負けてしまったが、良い思い出として残っている。
 
プロ野球よりも高校野球の方が面白い。プロ野球は、選手の年俸もあるし、一つのエンターテナーとしてある。
高校野球は違う。
都道府県や学校や、それらを乗り越えて家族や友情や、自分の積み上げてきたプライドを賭けて、打算もあまりなく試合を行う。
臭い言い方になってしまうが、夢中に白球を追い、夢を叶えようとする力に憧れるのである。
年をとるとともに夢は廃れてしまうが、夢というものは誰もが経験し記憶に残っている。
 
30歳を向かえ、写真家としての道を進んでいる今、スポーツへの興味も変化してきている。
高校球児でもあったし、出身は名古屋で中日を応援しているのだが、試合時間の長い野球への興味が薄れつつある。
もちろん出身の高校が勝ち進んだり、中日が優勝するとうれしいのだが、それは結果としてで、試合を最初から最後まで観戦することはなくなっている。
 
より一瞬で勝負の決まる攻守の激しいサッカーやボクシングに興味を惹かれる。
チームよりも個人、一瞬の儚さに惹かれるのだと思う。
野球は待ってくれるが、サッカーやボクシングは待ってくれない。
特にボクサーの自分の弱さをさらけ出し、精神力をも克服し、少しでも前へ進んでいかなければならない姿は、写真家を投影し、共感できる。
 
脳天を直撃するような暑さは、アジアを旅することでも経験する。
東南アジアの酷暑の日中は、日本の夏を超える。
写真を始めた頃は、ただがむしゃらに、日中の暑さもお構いなく写真を撮っていた。
 
今では経験も入り、写真になりにくい日中は避け、朝・夕に撮っている。
 
でも、がむしゃらに夢を追いかけたあの日は忘れない。
 

答えのない道

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お盆の為、ここ3日間はジムが休み。ほぼ固定されているバイトの派遣先も休み。
ある特定の場所へ撮影を行っていた。
撮影と言っても、取材や依頼があったわけではない。
自分が撮りたいから撮るという作品撮りというもの。
その作品撮りが実になるかは分からない。
未来とは不透明なものなのだ。少しでも動かなければ、少しの未来さえも口を閉じる。
結果は最初から期待していない。ダメならダメでそれでいい。
プライドを出し、ある人をリスペクトしているから、後悔はない。
 
昨年のことだったか。写真の専門学校で外国の写真家の講演があった。
写真家はセバスチャン・サルガド。
サルガドと言えば、日本では有名な外国の写真家の一人であると思う。
最後の方で、今取組んでいる写真の一群をプロジェクターで見せていた。
今までのサルガド自身のドキュメンタリーとはタッチが違い、一枚一枚の写真の説得力はあるにせよ、
「サルガドのような写真家でも迷っているんだなあ」
というのが率直な感想だった。
組んだ写真を見せても、それが100%の答えではないし、日本人である観客に見せることによって、
自身の今取組んでいる写真を再認識しているようにも思えた。
 
写真に答えはない。
どんなに経験を積んだ名のある写真家でも、「今までやってきたことに満足しているか?」と問えば、
きっと「NO」と言うだろう。
どんな分野でも、売れていようと売れていなくても、作家の欲や作家魂に、上限はない。
欲や魂が消えるのは、死ぬ時だけだ。
 
いきなり大きな結果なんて生まれない。
小さなものの積み重ねで、運と絡み合って、結果が生まれる。
小さなものの積み重ねがなければ、運にも相手にしてもらえない。
 
小さなものとは、体力や、バイトや、家賃や、写真の為の費用や、もっと小さな、現実の苦労も含まれる。
少しでも乗り越えて、少しでも夢を叶えていくのだ。
明日からまた雑誌の仕分けのバイトが始まる。
最近は週4,5日で働いている。
 
楽して、夢は叶えられない。
自身に言い聞かせて、少しでも前へ進みたいと思う。
答えのない道は続いている。

写真の審査

3件のコメント

サッカーの代表監督がオシム監督になって。代表選手が大幅に入れ替わる。有望な若手が成長できることは喜ばしいが、今まで選ばれていた選手は何だったのかという疑問も浮かぶ。
前のジーコ監督は、鹿島アントラーズ出身だから、鈴木や柳沢や小笠原や本山が好んで使われた。オシム監督はジェフ市原出身だから、巻や阿部がたぶん頻繁に選ばれるだろう。
サッカー選手のステータスがワールドカップに出られることならば、選手個人の力だけではどうしようもできない領域が必ずある。監督や協会や時にはマスコミという大きなものに左右されてしまうのである。そしてその左右されたものが、縦の糸や横の糸と複雑に絡まってより大きな運命という名の下に判断される。一人のサッカー人生をも決めてしまうのである。
 
ものを書く作家には、様々な「何とか賞」というものがあるが、写真の作家にも比較したら規模は小さいかもしれないが賞は存在する。サッカー人口や例えば小説人口は多いが、写真人口はそんなに多くないと思う。だから写真の賞というものは、注目度は低く、あまり世間に広がらない。
かと言って、写真に関する賞は確実に存在するのだし、賞に対する審査員、出版社持ち込みに対する編集者、など写真をやる者にとっても審査という壁は避けて通れない。
 
写真には、「自分がいいと思う」(モノクロ)カラー・被写体がある。審査も千差万別。どんなに努力しても、それは自分の価値観の問題でもあるし、何度応募しても通らない賞はある。僕は今は35mmの、フィルムの、ドキュメンタリー色の、色彩の濃い、アジアの写真を中心に撮っている。そうなると、大判で、どちらかと言えば淡い抽象的な写真が頻繁に入賞する写真の賞にはほとんど入りづらいと思う。たぶん応募しても、そっぽを向いてもくれない。つまり抽象的な写真を好む目の肥えた審査員や評論家の方々で固まっているからだ。
世の中の流れは、女性的な淡い写真が受けている。暗さはあまりなく、白っぽく、見ただけでも平和的で愛らしい。もちろん作者の感性もあると思うが、フィルムや今だったらデジタルの特性もけっこう絡んでいる。
でも、結局は作者が好むか好まないかだと思う。どの気持ちを重視して、どれを選ぶか選ばないか。
アジアを長く旅すると、明るいだけではないのである。どこかで喜んでいる人もいれば、必ずどこかで悲しんでいる人がいる。明と暗や、幸と不幸や、喜と悲は常に紙一重なのである。
だからどうしても、デジタルや明るいだけの写真はいまいち自分の中にすっと入ってこない。たとえ色彩が豊かでも、どこかで濃い、暗部のある、写真に惹かれてしまうのである。
 
全体的に見て、例えば一つの賞でも、10作品(作者)ぐらいは、「これだ!」と言って目の肥えた審査員には選ばれるかもしれない。しかし、その中の一つを選ぶとなると、サッカーの日本代表じゃないけれど、様々な運命が絡んでくる。例えば、長老審査員やカリスマ評論家の独断でも決まってしまうかもしれない。その選ばれた写真は、選んだ審査員や評論家の生き方や価値観や今の時代の読みを重ねられている。
もう運命ということでしか、写真家本人にとっては、片付けられない。
 
最後は、自分を信じるしかないのである。自分にも言い聞かせるしかない
サッカーや音楽や小説のように、写真人口は少ないけれど、人気や人口比率ではない。
自分がやりたい、プライドや価値観、進みたいと決めたからには、悩みながらも何とか進むしかないのである。

審査の運

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フリーで仕事をする者にとって、審査の運というものは必ずある。
誰にも必ずあるのだが、顕著にあらわれる。
何かを表現しようとしたり、作品を見せることは、他者が存在し、避けられない。
今話題の亀田ボクシングについても同じ様なもの。
個人的には、アンチ亀田か亀田支持かと言ったら、アンチ亀田ではない。
あれだけ努力する19歳をあまり見たことがない。
肉体を見れば、かなりストイックに自分を追い込み、練習を重ねていることが分かる。
僕には真似ができないから、抗議メールを送るような、あれこれ否定する資格はない。
ただ先日の世界戦は違和感が残る。ホームの有利性があったように思う。
放送局や観客をも巻き込み、判定負けをさせるような雰囲気ではなかった。
先日の試合が亀田の本来の実力ではないと思うし、まだまだ若いから、これからだと思う。
27~29歳ぐらいで、ボクサーとしては体力も落ちる頃に、どのようなボクサーになっているかが見てみたい。
少し周りがボクサーを持ち上げ過ぎという印象はある。
本来ボクシングは地味なはずだ。人間と人間との一対一の勝負。そこに収入が絡んでくると、何を重視したいのかが分からなくなってくる。
K1やプロレスは信用していない。どうみても、練習してなさそうだし、体がぶよぶよでも試合として成り立つ場面がある。
一般のボクシングに比べたら、はるかに味気なく、作られたようで、どこか薄っぺらい。
ボクシングも同じ様にならないことを願いたい。
通っている下北のジムで、現実には金銭とはあまり関係なく(夢には金銭を抱いているのかもしれないが)、自分の誇りの為に仕事の後でも練習をし、時にストイックに追い込むプロ選手が何人もいる。周りが騒ぎ立てなくても、たとえ地味でも、自分を信じて精進する姿は本当に美しい。