インドの写真を見ていると、魂が揺さぶられる。インドと日本には温度差がある。インドが剛で熱くものごとが進んで行くなら、日本は柔で少し冷めた感じで進んで行く。東京に住んで10年目、アジアを旅して8年目になろうとしている。人はないものねだりの生き物で自分もまた同じだと思っている。どちらも好きで嫌いだし、東京にずっといると新鮮な呼吸を求めてアジアへ行きたくなる。アジアに長くいると日本を恋しいと思う。僕は日本で産まれ、日本で育ち、日本で生活している。そしてこれからもここで生きたいと願う。僕に祖国を悪く言う資格も身分もない。ただ子供の時の幸福感は今はない。時折少年時代(小学生まで)に戻りたいと思うことがある。両親とも共働きだったけれど、ずっと平和が続くような安心感があった。少年ゆえの無知はあるが。東京へ出て来て地方者ゆえのコンプレックスもある。未だに馴染めない部分もある。インドの印象は強烈だ。何でインド人は哲学者的な顔をするのだろう、何でインド街は劇場と化すのだろう。ある写真家がインドは何でも絵になると言ったが、間違っていない。インドの過酷な風土が人も街も個性的にさせるのだろう。何度も帰りたいと思うことはあったし、日本人のプライバシーに入られるとカチンとくることもある。旅自体(滞在型ではなく移動型の旅)は過酷だが、写真は生きてくるのである。撮影者が厳しい状況であればこそ、写真に力が出るという考えは正しいように思う。アジアの一般的に貧しい人達の表情は豊かだ。目が生きている。僕は日本では低所得者だが、アジアでは恵まれてしまうという矛盾や複雑な気持ちはいつも感じる。でもいわゆるお金持ちには撮れない写真があると思っている。僕は野良犬の目になり、物乞いの指となる。プラスの部分もマイナスの部分も写真を撮る者としての本能で写したいものだ。自分をないがしろにしたボランテイア精神はないと思うが、まずは自分の土台をしっかりとさせて、ゆくゆくは何らかのフィードバックをしたいものだ。非国民の罪悪感は消えないが、写真という形で社会にも認められたいし貢献したい。賛同と批評の目と。あきらめず写真を続けるしかないのだろう。今の気持ちは暫らくはアジアよりも日本にいたい。