停電との戦いだ。誰かが隣にいると集中できない。本当は自宅のパソコンでゆっくりと考えながら書き込みたいのだが、そういうわけにもいかない。誤字脱字等は許して下さい。体調を壊した時、知り合いに感謝をするとともに、自分のふがいなさや弱さで自然と涙が出てきた。あの涙は打算ではなくて、本能からの純粋なおとこなみだであろう。ブッダガヤでは仏教を信仰する者が途切れることはない。今もなお多くの者を魅了し続けるブッダの影響力は大きい。だが、「ブッダとは何者だったのか?」「さとるということは何か?」「生と死とは何か?」は「自分は何か」をシンクロしてとても悩む。今はこう考えている。さとるということは、考えの最も逸脱したもの、思想の最上級ではないかと。決して偶然の産物ではなくて、悩んで悩んだ末の結果である。努力の積み重ねであり、何でも産みの苦しみはあるということだ。そして、さとるとは自分の信じているそれぞれの道にあるのではないか。さとるということの真の意味は、「生と死とは何か」とともに、はっきりとは分からない。旅をし、生活をし、考え、写真を撮り、まとめ、文を書き、それらによって少しでも分かりたいものだ。今の自分では未熟すぎるが、年齢と経験の積み重ねにより、精進したいものだ。ただそれらを追求するにはあまりにも非生産すぎ、今の時代には特に東京ではなかなか難しい。ただ今の時代には特に必要だろう。
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