写真の暴力

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進みたい道の写真でさえも。見方を変えれば暴力になってしまう。撮られる相手の受け取り方で。こちらの気持ちとは裏腹に。イスラムの国に飛び込んで実際に
撮ろうと思うと良く分かる。身を持って体験した。国の方向性や宗教や人間の価値観は複雑だ。郷に入っては郷に従え。これが大事だと思う。望遠を使う場合と
広角を使う場合と。ケースバイケースで、近寄って良いものか悪いものか。本当は近寄って撮りたいが、撮れないということは多い。僕の場合だけれど、写真を
撮る時は普通以上に神経を使う。良い写真を撮りたいけれど、撮られた相手に対して不愉快な思いをさせないか、気づかれないか。そうは言っても、これらのバ
ランスは難しい。報道写真であるように、強引に撮った写真は、一般的に見て良い写真が多いからだ。ただその場合、その写真を発表する際の自分の姿勢が問わ
れる。時代と自分の狭間で揺れなければならない。今の世の中はそんなに平和じゃない気がする。変な胸騒ぎを覚える。移動か何かで写真を撮っていない状態で
もし死んでしまったら、きっと後悔するだろう。でも写真を撮っている状態で何らかで死んでしまっても、後悔はあるかもしれないが、本望でもある。時に写真は暴力で、そのしっぺ返しで、しょうがないと思っている。
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バナーラスより

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今、バナーラスにいる。日本でも沐浴で良く知ら
れた街である。写真でも一度は見たことがあるのではないだろうか。朝と夕にガートに沿って歩き、立ち止ま
り、写真を撮っている。首都のニューデリーで数件の爆弾テロが起きた。1件はパハールガンジー。安宿やレストランや様々な店が立ち並ぶ。外国人観光客の多
いエリアだ。僕もニューデリーにいた時はここのエリアに泊まっていた。どこで爆発したのか正確な地点までは分からないけれど。写真を撮っている時は路地を
彷徨うし。通り過ぎたかもしれない。とても気が重い。怒りは誰でもあると思う。ただその怒りの矛先がどこに行くのか。相手の心を傷つけるなら良くはないが
まだしも。怪我をさせ、それ以上に死なせる。論外だ。人間は理性の生き物ではないか。暴力はいけない。新聞やインターネットではイスラム過激派らしいが。
これらの情報が頼りの自分では断定はできない。仮にそうであったとしても。ごく一部の人間だ。パキスタンにいた時も、バングラデシュにいた時も、ニューデ
リーにいた時も。(ジャマーマスジットというモスクのある地域に写真を撮る為に通っていた)大部分のイスラムの人達は知的で温厚でやさしい。もちろん大部
分のヒンズーの人達も同じであると思っている。問題は、一部のイスラム過激派とヒンズー過激派が対立し合い、新たな暴力を産むこと。旅行者を含めた大部分
の人達が巻き添えになることだ。怒りが怒りを呼び、悪循環。この世は、先入観と憎悪と後悔の連続である。怒りからの暴力を断ち切れ。怒りを相手に迷惑をかけない矛先に向けよ。ガンジーが泣いてい
る。ガンガーが泣いている。僕の怒りは写真にぶつける。

アーグラーより

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今はアーグラーにいる。世界的に有名なタージマハルがある街。6年前もここを訪れた。その時見た幻想的な光景が忘れられず。なんとか写真でものにしようと粘っていた。宿の屋上からは全景が見える。タージマハルは引いた視点から見るのが良い。色と形と大きさと。朝と夜ではまた違った印象を与える。近すぎればただの大理石の壁であると思う。何でもそうかもしれない。タージマハルという玉ねぎの下で。世界はタージマハルを中心に周っている。今日の夜行列車でバナーラシへ。

ポエムNO.2

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ニューデリーに戻ってきた。ガンジス河上流の街に行ってきたのだが。沐浴も見方を変えれば水浴びに見える。寺院もビジネスに見える。どこまでが本物でどこまでが虚構なんてそんなこと分からない。人それぞれだと思う。朝や夕暮れの沐浴は神聖に見えることがある。神聖か神聖でないかは紙一重。明日からバナラシ方面へ向かおう。行けたら、ネパールへも。
 
「欲と俗」
人間は欲の塊。欲(金欲、物欲、食欲、性欲)の奴隷である。ブッダさえ悟という欲を願ったのではないか。欲を捨てたら、死人になるか、神になるか。死人になるな、神にはなれない。人間は欲を抱えながらも生きていく。たとえ物乞人になったとしても生きていく。欲を出すことは恥ではない。人間の宿命だ。生きるしかないのだ。人間は欲の塊で俗な生物。決して神聖ではなくて、神にはなれない。
 
「写真家」
写真家とは写真欲という物欲の塊人。どんなに神聖でも、感動させても、泣かせても、心をえぐりだしても、真実は消えない。よりよい構図を作ろうと、よりよい表情を引きだそうと、よりよいシャッターチャンスを探ろうと、よりよいアングルを見つけようと、よりよいタイミングを計ろうと、よりよいバランスを作ろうと、よりよい運命を願おうと、よりよい美を求めようと、よりよい外面と内面に近付けようと、写真家という俗人のカルマ。
 
「儚き者達」
明日死んだら何も残らない。容姿も性別も性格も名誉も権力も記憶も想像も何も残らない。骨と灰とそれらさえも河に流されれば、土に埋められれば、水となり、土となる。生きて、死んで、時が流れ。そして、忘れ去られていく。人間は儚い生き物。

INDIA ポエム

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旅をしても、日本にいても結局は一緒だと思う。短い旅をしても、長い旅をしても、あまり変わらない。用はどれだけどんなことを感じるか。自分の心にある気がする。たぶん人間はあらゆることがはっきりとは分からない。だからあらゆることをする。分かっているのは、分かっている気がするから。はっきりとは分からないまま、分かろうともがき、旅をしていこう。そのうち答えが出るか、出ないか。明日、ガンジス川のある街、リシケシュへ向かう。
 
感謝の心」
日本を離れて気づく。家族と知り合いのありがたさ。一人は苦しい。泣きそうになる。日本にいると感謝の心が薄れる。いつでも会えると思っているから。必要な時にあの人はもういない。あの時、あの人とたくさん話しをするべきだった。手の届かない遠く遠く離れた場所で。早くあの人のあの笑顔に会いたい。あの声が聞きたい。
 
「多様性」
男も女も、イスラムもヒンズーも、老人も赤子も、ブルカもサリーも、豊かな人も貧しい人も、髭の長い人も短い人も、商人も物乞人も、マンションもスラムも、犬も猫も、牛も山羊も、タクシーもリキシャも、青年も少年も、路上を歩けば人に出会う。インドは様々なカラーで溢れている。一人一人という、個性という、共存して協調して暮らしている。多様性という宝船。
 
「LAST LIFE」
人間はいずれ死んでいく。一人ぼっちで死んでいく。家族がいても、夫婦でも、恋人がいても、親友がいても。誰も助けてはくれない。死は誰にも必ずやってくる。この世は非情だね、自分の最後が分からないなんて。死んだらどこへ行くのだろう。死んで、生きて、死んで、どこへ帰るのだろう。
 

昨日の地震

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先程更新した後、海外ネットニュースを見た。昨日のパキスタンの地震の被害。驚いた。昨日、ここニューデリーも確かに地震はあった。ホテルの中にいたのだが。大きいという印象はなく、震度3ぐらいかなと思っていた。ただすぐ止まず、少し続いた。ニューデリーは被害がないと思う。昨日の地震の後も、そして、今も街は正常に動いている。去年の今頃はパキスタンのフンザにいた。今、パキスタン方面にいる方は無事だろうか。やはり心配で他人事には思えない。旅をしているとニュースに疎くなる。テレビもなく、日本語もなく、情報が少ない。隣国のパキスタンの情報さえも。日本にいる方が、ニュースと言う意味では、情報がすぐに入る。旅をしていて何とかなる時とどうにもならない時があると思う。どの日にどの時間帯にどこの場所にいるか。本当に紙一重だと思う。毎日とはいかないまでも。ある程度はニュースをキャッチしつつ、旅を続けたい。

今のココロ

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東京にいても、インドにいても、あの人は振り向いてくれるのだろうか。楽をしても、苦労をしても、あの人は気づいてくれるのだろうか。
「恋心」あの子は元気でやっているかな?僕は遠く遠く離れた地で頑張っているよ。あの子に声が届くように、気持ちが通じるように。ただ願うことがあるならば。僕とあの子がずっと一緒でいられますように。永遠に別れる悲しいことにはなりませんように。

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